日南キャンプの思い出

 私は、昭和48年から2005年春までに18回168日、日南キャンプを取材しています。
  昭和48年、初めてのカープ日南キャンプ。ベテランスポーツ部員E藤氏と私と同じキャンプは初めてのS木アナと一緒。
 新幹線はまだないので、夕方、広島港から広別汽船に乗り、別府に翌早朝5時頃に着く。 早すぎて宮崎行きの急行もないので、10時すぎまで旅館で仮眠をとり、朝食のサービスを利用。10時過ぎに大分を出発すると、 宮崎駅に午後遅く着き、学校帰りの生徒たちと一緒に普通列車でやっと油津に到着する頃には、すっかり夕方になっている。
 こんな調子なので、取材したフィルムを列車で送っても、翌日の夕方ニュースにかろうじて間に合うというのが当たり前という時代だった。

 宿舎はホテル日南の裏手にある巴荘。ほとんど民宿か連れこみかという風情の小さな旅館。 ふっくらとした美人女将ぐらいしか取り柄がなく、風呂は湯船に練炭をいれて沸かすといった案配。 料理も特に美味いと言うほどではなく、焼酎で流し込むというかんじ。 もっとも当時のカープは万年Bクラスなので、取材陣も中国新聞とスポーツ紙2〜3社くらいしかいなかったが。

 取材規制はなく何処でも入れ、投球練習場に脱ぎ忘れた私のコートを、 長谷川良平ピッチングコーチがわざわざ持ってきてくれるほどの和気藹々とした雰囲気。 夕食後には、衣笠選手などが我々の部屋まで遊びに来るといったことも珍しくなかった。

 解説者は、金山次郎氏がメイン。金山氏とは良く一緒に飲んだが、決まって出る話がいくつかある。 同じ話を何度もするのだが、落語のように何度聞いても面白い。
 そのなかの一つが「哲のカーテン」。金山氏が初めて解説者になった年、RCCアナと巨人の取材に行った時の事。 川上哲治監督を見つけ早速「インタビューさせろ」と申し込んだ。しかし、当時は、あの有名な「哲のカーテン」の年。 キー局の取材陣も全く取材できず手をこまねいていた。 そんな事は全く知らない金山氏、「とにかくRCCは取材経費が少ないから、何日も待つわけにはいかん。 俺の初仕事だからなんとかしろ」と申し込んだ。さすが松竹ロビンス時代からの大ベテラン、川上哲治氏も無視できない。 しょうがないので、急遽記者会見がおこなわれる事になり、RCCはその最前席の栄誉に預かる事になった、という件である。

 私は川上監督時代の現役時代、試合前のベンチに顔を撮りに行ったりしたが、全然こっちを向いてくれず困った記憶がある。 しかし、その川上氏も解説に転向した年、私が他の記者たちと釣りの話をしていたところ、 側で聞いていた川上氏が身を乗り出して「それは何処か?」と聞いてきて、余りの気さくさにビックリしたことがあった。

 とにかく、金山氏と取材に行くと楽しい。 後楽園でのオープン戦では、行きの新幹線でE藤ディレクターとビールの飲み比べ。 社内販売が通るたびに買い求め、降りる時には、窓際には管ビールの壁が出来ていた。 天下の巨人藤田監督のTVインタビューなので私が心配していると、「俺は藤田の親戚に金を貸したことがあるからまかしておけ」という。 その時の藤田監督は、愛想良く無事取材は終わった。

 こんな金山氏も一度だけ、びびったことがある。近鉄の西本監督の時である。現役時代にプレーもめたことがあったらしく、気が進まないらしい。 でも西本監督も金山氏には一目置いていたらしく、心配は杞憂に終わった。

 ほかにも、H本氏が「韓国に、カーボンのつり竿を持っていくと高く売れる」と薦めた話とか、K原アナのマイクが壊れ、 大分まで借りに行った話とかも面白いのだが、 私が書くとつまらないのでここらで止めにする。

 長谷川良平氏は、若い時は大変もてたらしいが、スキャンダルにはならなかったらしい。 というのも「ワシもええ思いしたかもしれんが、あんたもええ思いしたじゃろ?」といって別れた、というからたしたものだ。

 大石清氏は、カープが昭和50年に初優勝したあと、北別府、小林らと一緒に投手コーチでやってきた。 私がカメラを回していると、段々後ずさりしてフレームアウトする撮り難い人だった。
RCCの解説になった時この話をしたら覚えていたようで、この後はすっかり打ち解け、 後に日ハム名護キャンプのコーチ時代には、取材後に宿までスコッチを届けてくれた。

 大下剛氏は、やんちゃで有名だったが、解説になった時の初インタビューは私だった。 後にTV朝日の解説で日南キャンプにやってきた時、私が彼と普通に話しをしていたら、TV朝日の大下担当が自分の名刺を私に差し出し、 「よろしくお願いします」と言って来た。 こちらのほうがビックリした。大下氏と普通に話す私を「大物」と勘違いしたらしい。

山本一義氏は、北海道で石炭箱一杯買い物した話とか、美空ひばりにネクタイもらった話とか、「人の話を聞くときは、 必ず帳面にメモをとれ」と言った話は有名だが、私が一番気に入っているは、 「旅行にいったら女房の実家にだけ土産をおくれ」という話。「じゃあ自分の実家はどうするんですか?」と私が聞いたら 「それは女房がちゃんと送るから」と言われた。 大変勉強になった。

 外木場義郎氏は、完全試合男として有名だが、そのボールは引越しの時になくしたらしい。残念、お宝鑑定団に出せたのに。

 2005年3月4日、RCC食堂ではカープと共同で行ったBフレッツによるキャンプ生中継の成功に酔っていたが、ここまで来るには長い道のりがあった。

カープ優勝以前は、かさばる機材(といっても三脚と充電器ぐらいだが)は、 選手の荷物と一緒にカープのトラックで送ってもらっていた。 勿論取材は16mm。手持ちのベルと望遠を付けたアリフレックス。たまに、高速度カメラのミリケン。 400/sまでで撮影でき、高速なために、フィルムがきちんと回るよう両側にパーフォレーションのある16mmフィルムを使う。 バッターは200/s ピッチャーは100/sで撮影した(通常は24/sである)。

 昭和54年にENG化を果たし、昭和55年春のキャンプからは、日南にENG編集機を持ちこんだ。 編集したテープは、タクシーで1時間かけて、宮崎市内のMRTに持ちこんでマイクロ送り。 昭和56年からはホテルシーズン(当時はシーサイドホテル)の裏にある花咲山の頂上にマイクロ送信機を置いて、 鰐塚山経由でMRTに伝送しての素材送りとなった。 宮崎県内には民放は2社しかなく、NTTの上りマイクロ回線も少なく、広島の5社が自由に素材送りが出来なかった。 そこで昭和62年からは、5社共同で油津のNTT電話局の局舎を借り伝送する事になった。 その後、NHKが油津支局からのマイクロ伝送に切り替え、RCC1996年からは、MRTが設置した日南支局からの素材送り回線を借りて、 単独で素材送りすることになり、数年前からは、油津のNTT電話局も無人となった。現在は他社もBフレッツ伝送にしている。

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